好きな武将(*´▽`*)島津家
島津家は鎌倉時代から明治維新まで700年ちかく渡り同一の国・地域を治め続けた世界でも稀有な領主である(;゚Д゚)700年って!
15代を貴久(伊作氏出身)は称し嫡男である16代・島津義久の時には、日向の戦国大名である伊東氏を駆逐し、島津氏による三州の再々統一を成し遂げている!
九州統一にあと一歩(;一_一)あとちょっとだったのに…
1578年(天正6年)の耳川の戦いにおいて、九州探題の大友氏に勝利したのち、大友は衰退の一途を辿り始める。
大友が菊池氏より守護職を簒奪していた肥後国より名和氏と城氏が島津氏へ誼を通じて、
義久は天草五人衆を従属させ、宇土半島の阿蘇氏勢力を駆逐し名和・城両氏への支援路を確保、北上への足掛かりを築いた。
1581年(天正9年)には人吉の相良氏を降伏させた。
また1584年(天正12年)の沖田畷の戦いでは、大友衰退後に九州北西部に強大な勢力を誇っていた肥前龍造寺氏を撃ち破り、九州最大の戦国大名へと成長した。
龍造寺氏を破り大友から龍造寺に鞍替えしていた肥後豪族も島津方に転じ、残る肥後北中部の阿蘇氏と、その被官である甲斐氏の拠点を陥落した(豪族としての矢部・阿蘇氏は滅亡し、その後、大宮司家として再興)。
島津軍が瞬く間に快進撃を行えたのは、鉄砲の存在と、それを実戦で培い磨き上げた巧みな鉄砲戦術が大きかったと考えられている(;一_一)鉄砲の使い方が上手い!
義久は3人の弟(島津義弘・歳久・家久)とともに、九州統一を目指し、一時は豊後・豊前の一部を除く九州のほぼ全てを手中に収めるなど、島津氏の最大版図を築いた。
ここまでは順調だったんだけど(;一_一)徐々に歯車が…
1587年(天正15年)に大友義鎮の奏請による豊臣秀吉の九州征伐を受け、木食応其の仲介のもと降伏する。本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡は交渉の結果、安堵される。
島津四兄弟の逸話!
義久
関が原以後、本領安堵後、家康に伏見城へ招かれたとき、義久は合戦での手柄話を乞われた時、
義久は「弟たちや家臣団を遣わせて合戦し、勝利をおさめたというだけであって、自分の働きなどひとつもない」と答え、
家康は「自らが動かずして、勝つことこそ大将の鑑よ」と感心したという説がある。
身内を信じて動かない(;゚Д゚)戦場でその行動が1番難し…
江戸時代初期に国分地方(現鹿児島県霧島市国分)においてタバコの生産を奨励したのは義久といわれている(『大日本農功伝』など)。
貧しい土地柄で換金性の高い農産物の乏しかった南九州において、タバコの収入は以後貴重な薩摩藩の収入源となったのは間違いない(;一_一)頭良すぎ!
義久の逸話の中でこの話が好き( *´艸`)自分もこうありたいもの!
自らの戒めとするために、寝室に歴史上の大悪人の肖像を飾って、寝る前に一日の反省を行う習慣があった(;一_一)オイラも日々反省はしてるけど…
義弘
四兄弟の中で1番好きな武将!
ちょっとネタで
コーエーさんなぜに?ハンマー(;゚Д゚)鬼島津と言われた人なのに…
義弘が1番好きな理由は、人情深く愛妻家(ここ重要)ところに…(*´▽`*)憧れる!
戦場から奥さんが恋文を出すくらいの愛妻家で家族思い!
妻に送った手紙の中に、
「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、
義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
\(*´▽`*)ハイ!ここテストに出ますよ!
義弘は戦場にネコ連れて行き、時間を猫の目で確かめていた!
愛猫家でも知られている!
歳久
酒豪でも知られておりお酒での逸話も多い!
島津家中では豊臣秀吉を脅威とする数少ない人物の一人であったが、皮肉なことに最終的には反秀吉の最も強硬派の一人となる。
自害の折中風により刀を握ることが出来ず、傍らの石を持って割腹せんとして苦痛を味わったとも伝えられている。
この時に、
「女もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」と言ったともされており、平松神社には「戦の神」として以外に「安産の神」としても信仰されている。
またこの故に「お石様」とも呼ばれるようになった!
九州男児かっこ良すぎ(´艸`*)♡
女性を大切にする事が当たり前の様に出来るこの姿勢を学びたいものです(*´▽`*)
家久
家久は正室の産んだ子ではなく、妾腹に生まれた子であり、またその母は高貴な身分ではなかった。兄弟四人で連れ立って、鹿児島吉野で馬追を行った時のこと。馬追が終わり、当歳駒を一緒に見ていたとき、歳久が義久と義弘に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と言った。
義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは言っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言った。
それからというもの家久は、昼夜学問と武芸にのみ心を砕き、片時も無為に日々を過ごすことはなく、数年の内に文武の芸は大いに優れ、知力の深いこと計りがたいほどとなり、四兄弟の能力の優劣もなくなった。
島津四兄弟の事を知れば知るほど(*´▽`*)男でも惚れる!
家族を思いやる優しさ兄弟の絆そして女性をとても大切にしているところは、日本人として誇りに思う(*´▽`*)
0コメント